「何がいじめか」定義の受け止め方にギャップ ②

2025年7月30日

深めよう 絆 にいがた県民会議
座長 橋本 定男

「何がいじめか」この理解が問題対応や未然防止のカギになると考えます。注目したいのが、法(いじめ防止対策推進法)と一般(多くのこどもや大人)との間にギャップがあると言われる現状です。先回、次のような説明をしました。
法のいじめのとらえ方は詰めて言えば、「1回でもいじめ、軽くみえてもいじめ、加害側の意図は問わない」になります。これに違和感をもち、「一方的に、継続して続け、深刻な苦痛を与えるものがいじめ」でないのかと思うこどもや大人が少なくありません。この現状が法と一般のギャップです。これをどう理解し、どう越えたらよいのでしょうか。
私に考えるヒントがあります。教職を目指す学生と法の定義をめぐる議論をするうちに浮かんできたものです(率直に思いを語る学生の皆さんに感謝)。違和感をもつという学生の多くに共通する声が3つあります。まず次の2つです。
(ア)された側が辛いと言えば何でもいじめになってしまう。それでいいのだろうか。
(イ)被害側のことをより優先していると思う。一方的で偏っているのではないか。
“必ず”と言えるほど(ア)と(イ)が、違和感があるとする学生の意見やレポートに表れます。このことから、いじめを『被害側が苦痛を感じるもの』とする法のとらえ方と、法の理念が『被害側に寄り添っている』と解釈できること、この2つが違和感の”素”になっている、ギャップの核心になっていると考えました。
さらに、このことをどう理解し、越えたらよいのか。踏み込んで考えるヒントになるのが、もう1つの“必ず”表れる次の声です。
(ウ)これではとてもやりづらい。「やってられない」という気になる。
この「やってられない」気持ち、これはなんだ? 突っ込んで考えてみました。

「やってられない」という気持ちは
<いま自分がいる場所で、(ア)「何でもいじめ」(イ)「被害側優先」を受け入れると>
○ これまで普通にやってきたことが普通にやれなくなってしまう。
○ これまでより気遣いや気苦労が増え、いつもの穏やかで平和な感じが減ってしまう。
○ それは良くない。これまでの順調さ、穏やかさ、快適さがおびやかされるのは困る。
などの「思い」から発するのではないか。その「思い」は”無自覚”ではないか。

すなわち、「やってられない」は無自覚・無意識レベルの一種の不安から、あるいは一種の傲慢さのようなものから生まれると考えます。「いま自分のいる場所」は多くの仲間(みんな)と共にいる『多数者側』です。力や価値観の源泉をもつ側、つまり『マジョリティ(メジャー)側』です。そこから想定被害側、つまり、『マイノリティ(少数者)側』をみる構図が浮かびます。無自覚で、多数者側(力ある場所)から我が身を護るような視点で少数者側をみてしまう。ここにギャップの本質があると考えられます。
多数者側にいることの自覚と畏れをもつこと、そして少数者側に寄り添うこと、これがギャップを越えるカギになると考えます。 (関連事項;『アンコンシャス・バイアス』)